ベートーヴェン

年号内容その他
1770年(0歳)●12月16日 神聖ローマ帝国のボンに生まれる。祖父:宮廷の優れた歌手・鍵盤楽器奏者・楽長・ベートーヴェンと同名。
父:ヨハン・ヴァン・ベートーヴェン 宮廷の歌手。母マリア・マグダレーナ・ケーヴェリヒ・ライム。
前年1769年8月15日にナポレオンボナパルトが生まれる。
1773年(3歳)●12月24日祖父が亡くなり、次第に貧しくなる。
父親、および仲間である宮廷音楽家などから音楽を習う。しかし、父親はアルコール依存症/虐待的。父親の目的→息子の音楽的才能を早く開花→「儲かる商品」に。公立の小学校の学校教育のみ。(英Wiki)
 
1778年(8歳)●3月26日 ケルンでの演奏会に出演。ピアニストとしてコンサートデビュー。
(ベートーベンの亡くなった日も3月26日。コンサートデビューと命日が同じ)ヨハン(父親)が公開演奏のポスターには、ベートーベンは6歳(本人は7歳)だったと記載。ベートーヴェンも自分の年齢を知らなかった。●幼い頃からボンを歩き回り、その美しい環境を知っていた。 (セイヤー)
 
   
1781年(10歳)●母親は冬の初め小さなルートヴィヒを連れてオランダへ旅したとき、船の中はとても寒く、霜から守るために彼の足を膝に抱え、冷たい足を懐で温めた。(セイヤー) 
1780年か1781年(10歳か11歳)●クリスチャン・ゴットローブ・ニーフェに師事。(宮廷オルガニストとしてニーフェの助手となる)
ニーフェは、作曲家・名オルガニストとして有名な人物。クラヴィーア、オルガン、通奏低音、作曲法を体系的に学ぶことにより、演奏技術が格段に向上。
 
1782年(12歳)●宮廷オルガニストとして多忙を極めるニーフェの代理など行う。ニーフェは重要な場面で代役を任せる、ベートーヴェンの曲を出版するなどチャンスを与えた。
●親友となるフランツ・ゲルハルト・ヴェーゲラーと知り合う。
♬ドレスラーの行進曲による9つの変奏曲 ハ短調
1783年(13歳)♬最初の出版作品、「鍵盤変奏曲集(WoO 63」)を発表 「選帝侯ソナタ」出版。
●21歳になったばかりの、フランツ・ゲオルクが8月16日に亡くなった(セイヤー) 
♬鍵盤変奏曲集
1784年(14歳)●ヴェーゲラーを通じてフォン ブロイニング家にピアノ教師として雇われる。●フォン・ブロイニング家族は、母親と3人の息子、次女で構成されていた。母親(ヘレン)は若きベートーベンの才能、感性、知性に心を奪われ、彼を自分の子供の一人として受け入れた(後に「2番目の母」と呼ばれる)。♬ピアノ協奏曲 変ホ長調
1785年(15歳)●宮廷のオルガン奏者になる。宮廷楽団のチェンバロ奏者、ヴィオラ奏者としても活躍した。ワルトシュタイン伯爵の後援をうける。 
1786年(16歳)●1786年12月末、ベートーヴェンはモーツァルトに作曲を学ぶため、マクシミアン・フランツマックス・フランツの援助でウィーンへの旅行に出発した。(ドWiki)♬ロマンツェ・カンタービレ ホ短調
1787年(17歳)●2週間ほど滞在し、モーツァルトに出会った可能性がある。モーツァルトはベートーヴェンの即興演奏の才能を高く評価し、「この若者は世界に名を馳せるだろう」と友人たちに語ったという伝承がある(信憑性!)  ?
●2週間ほど滞在したが、モーツアルトに会えたかは不明。
●母親危篤の知らせでボンに戻る。
●1787年7月17日母親が亡くなる。(41歳)
 
1788年(18歳)●一家の長として家計を支える。父の年金の半分は家族を養うためにルートヴィヒに直接支払われるよう命じられた。(ボンにいる最後の4年間)~1791年(21歳) 
1789年(19歳)フランス革命勃発♬『騎士のバレエ』
1790年(20歳)エステルハージ音楽院を廃止。このため30年勤務したハイドンは解雇。♬メヌエット 変イ長調
1791年(21歳)12月5日モーツァルト死去。(35歳)ハイドンがロンドン旅行の経路でボンに寄り、ベートーヴェンの演奏を聴く。能力を認め、いずれウィーンに来るように約束している。♬ピアノ三重奏曲 変ホ長調
1792年(22歳)●ハイドンに弟子入りする。ハイドン(53歳)に才能を認められ弟子入りする。●ウィーンに移住。12月18日に父親が急死。葬儀はヴェーゲラーたちが済ませた。(52歳)(ボン/ベートヴェンは帰らず)🏠🏠●アルザヴォルシュタットの本印刷業者シュトラウス(Strauß)の家の屋根裏部屋を借りる。
その後「リヒノフスキー公爵のアルセルガッセの45番」に転居(セイヤー)
♬ヴァイオリン協奏曲 ハ長調♬弦楽四重奏曲 ホ長調♬ピアノ三重奏曲 変ホ長調♬アレグレット 変ホ長調
1793年(23歳)●ヨハン・シェンク、アルブレヒツベルガーのもと、対位法など学ぶ。●アントニオ・サリエリから声楽の指導を受ける。(1795年頃かもしれない。/複数年続いた模様。)
サリエリは「裕福でない音楽家には無料でレッスンをする」ことをしていたので、ベートヴェンはそれを利用した。(セイヤー)
 →1795へ●リヒノフスキーは、一時期ベートーヴェンに自宅のアパートを提供した。
1800年以降、リヒノフスキーはベートーヴェンに600グルデンの年俸を支払う。
1802年以降、彼は市民としての権利も享受した。●ベートーヴェンは、約2年後発表された作品1-1〜1-3のピアノ三重奏曲をリヒノスキー侯爵邸で演奏。
ハイドンは1と2は大変評価したが、3番は出版しないようにと忠告した。しかしこれはハイドンの妬み嫉妬であった。(セイヤー22章)ハイドンは驚いている。作品自体はボン時代ではないかとも言われる。ナポレオン大尉に昇進
ナポレオン発案の軍事作戦が成功し、旅団将軍(少尉相当)に昇進
♬オーボエ協奏曲 ヘ長調
1794年(24歳)●1月ハイドンがイギリスに渡ったため、ハイドンのレッスンはここまで。●この年サリエリから声楽の指導を受ける。(前年にも記載があるが、年末の話か、実行が年を明けてか不明)
ヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガーに対位法を習う。フランス軍ボン占領。選帝侯宮廷は逃亡を余儀なくされ、ベートーヴェンはボンに戻る根拠を奪われ(召集がかかるかまでウイーンに留まるよう指示された、選帝侯からの俸給の支払いも停止。選帝侯マクシミリアンは逃亡。(マクシミリアンの姉はマリー・アントワネット)●1794年春、弟カスパール・カールがウィーンに移住。ナポレオン、イタリア戦線での方針対立により降格処分。
♬ピアノと管弦楽のためのロンド 変ロ長調♬前奏曲とフーガ ヘ長調
♬前奏曲とフーガ ハ長調♬ピアノ三重奏曲第1番 変ホ長調さ作品1−1 
1795年(25歳)●アントニオ・サリエリから声楽の指導を受ける。(1795年頃かもしれない。/複数年続いた模様。)
サリエリは「裕福でない音楽家には無料でレッスンをする」ことをしていたので、ベートヴェンはそれを利用した。(セイヤー)ハイドンがイギリスへの演奏旅行から帰国すると同年に完成した3曲のピアノソナタをハイドンに献呈した。
ベートーヴェンはハイドンから得られるものは無かったと言っているWiki)●1795年12月、弟ヨハンがウィーンに移住。●パリ王党派が蜂起したことにより、ナポレオンは縁故により副司令官に任命される。
 鎮圧に成功したナポレオンは、国内軍司令官の役職を手にいれる。●6/13 アントン・シンドラー 生まれる(シンドラー伝)🏠●ベートーヴェンはモンテヌオーヴォ宮(1,Löwelstraße6)の2階に住む。(Über)
♬ピアノ三重奏曲Op.1♬ピアノ協奏曲第1番 ハ長調♬ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調♬前奏曲の終結部 ニ短調♬ピアノソナタ第1番 ヘ短調 作品2-1
♬ピアノソナタ第2番 イ長調 作品2-2
♬ピアノソナタ第3番 ハ長調 作品2-3♬ピアノ三重奏曲第2番 ト長調さ作品1-2♬ピアノ三重奏曲第3番 ハ短調さ作品1-3
1796年(26歳)●プラハ・ライプツヒ・・六か月間に及ぶ演奏会旅行。(実質的なコンサートツアー)●ナポレオン:オーストリア帝国包囲のため、イタリア方面司令官に抜擢される。●オーストリアでは、政府も国民も侵略の危機への期待と恐怖に包まれ、一般蜂起が起こり、帝国各地で義勇軍が結成された。(セイヤー1796〜1797)ナポレオンの侵攻 
ウィーン市民への別れの曲・オーストリア戦闘の歌(オーストリア軍歌)・・・・・愛国的な2曲がウィーンで歓迎される。 
新進気鋭の作曲家  
ピアニストだからピアノ曲を作曲するのは当たり前→オペラ、オーケストラの曲が求められた・・・
♬チェロソナタ第1番 ヘ長調♬チェロソナタ第2番 ト短調
1797年(27歳)イタリアオペラ作家アントニオ・サリエリから歌曲を学ぶ●3月16日、 ボナパルトはタリアメント川とイソンゾ川を強引に横断し、その後の2週間でカルニオラ、カリンティア、チロルの大部分を征服し、現在ウィーンに急接近していた。(セイヤー1796〜1797
●4月ナポレオン軍はウィーンに迫り、独断で講和交渉に入る。これによりフランスは広大な領土を手中にし、幾つもの衛星国を建設し、膨大な戦利品を得た。●ナポレオン軍オーストリアに侵攻目標設定、貴族たちはハンガリーに避難を始めた。ところが、ウィーンから100 Kmのところで予備講和を申し出て停戦が実現。(英Wiki)
ナポレオン ウィーンにて講和交渉カンポ・フォルミオ条約●12月、パリへと帰還したフランスの英雄ナポレオンは熱狂的な歓迎(Wiki)
しかし海上に強いイギリスに決定打を与えらなかったため、交易の中継地であったエジプトを攻撃する計画を立てる。
●12月 ラシュタット会議 99年4月まで(オーストリア✖️フランス代表の三人中2名が暗殺される)これにより戦争再開。
♬ピアノ三重奏曲第4番 変ロ長調「街の歌」
1798年(28歳)●ある日、来客。作曲中にドアがノック。自分の邪魔をされ立腹、ドアに駆け寄り一歩踏み出した瞬間、椅子を倒して地面に顔を打つ。すぐに耳がガンガンし始めた。ベートーヴェンの耳との闘いの原点となった日である。聴力は良くなる時期もあったが、回復することはなかった。ベートーヴェンは徐々に聴力を失い、最初は高音から、1814年には完全に聴力を失った。(Popular Beethoven)●来客により作曲の邪魔をされ立腹し、部屋の中で転倒。顔面を打ち、気がつくと耳が聞こえなくなっていた。ベートーヴェンの難聴の始まりとされる。(Popular Beethoven)●7月、ナポレオン軍はエジプトに上陸。●聴覚障害の最初の症状が現れ始めた。(Wiki)♬ヴァイオリンと管弦楽のためのロマンス第2番 ヘ長調♬ヴァイオリンソナタ第1番 ニ長調♬ヴァイオリンソナタ第2番 イ長調♬ヴァイオリンソナタ第3番 変ホ長調♬オラトリオ『ソロモン』の序曲♬弦楽四重奏曲第3番 ニ長調
1799年(29歳)●ジョセフィン・ブルンスヴィクに恋をする。熱狂的。身分が釣り合わずかなわず・・
ピアノソナタ第8番悲愴。(ハ短調を好む)
カール・アロイス・フォン・リヒノフスキー侯爵へと献呈された。
●ナポレオン勝手にエジプトからフランスに戻る。●ナポレオンブリュメール18日のクーデタを起こす。ナポレオン 統領政府を樹立し自ら第一統領(第一執政)となり、実質的に独裁権握る。●ナポレオンはアルプス山脈をグラン・サン・ベルナール峠越え。(イタリア奪還へ)🏠●ベートヴェンティーフェン・グラーベン (Tiefer Graben 10)に住む。(セイヤー)
♬ピアノソナタ第8番 ハ短調「悲愴」
1800年(30歳)●ボンで世話になっていた選帝侯マクシミリアン・フランツがわずかな側近とともに、ウィーンのエステルハージィ庭園に逃亡し、シェーンブルン庭園の裏手にある小さな城(現在のヘッツェンドルフ駅の近く)が住居として用意された。●ベートーヴェンはデーブリングの精神病院の北、ウンター・デーブリングの一軒家に、自分と使用人のためにアパートを借りた。●ピアノから脱却、室内楽や管弦楽曲、四重奏曲や交響曲といった、より高い形式の作曲の場を得ようとした年zeno.org●ナポレオン:フランス銀行設立/ナポレオンへの暗殺未遂激化。●ベートーヴェンはティーフェン・グラーベンのアパートに戻った。●3月24日付で財務官に昇進した弟カールには、250グルデンの給料。あと音楽を教える事で、比較的快適な生活ができていた。(セイヤー)🏠●グライナーの家「Zur kleinen Weintraube」(1,Tiefer Graben 2)に住む。(Über)♬交響曲第1番 ハ長調♬ピアノ協奏曲第3番 ハ短調♬弦楽四重奏曲第1番 ヘ長調♬弦楽四重奏曲第2番 ト長調「挨拶する」♬弦楽四重奏曲第3番 ニ長調♬弦楽四重奏曲第5番 イ長調♬弦楽四重奏曲第6番 変ロ長調
1801年(31歳)●ブルンスヴィック姉妹を通じ「ジュリエッタ・グイチャルディ」と知り合いになり、彼女の虜になる。短期間恋に落ちる。●ベートヴェンは、ザイラーシュテッテの正面玄関のある家の一軒に、堡塁の見える部屋を数室借りた。●ウィーンでは、短い神聖カンタータが流行する。※※弦楽五重奏曲ハ長調作品29を作曲。●1801年7月26日 、マクシミリアン死去。●友人アントン・ライヒャがウィーンに移住。音楽ではライバル関係。/友人フェルディナント・リースがウィーンに移住。🏠●ザイレルンの小城に滞在(Über)♬ピアノソナタ第14番 嬰ハ短調「幻想曲風ソナタ」(月光)♬『プロメテウスの創造物』♬ヴァイオリンソナタ第4番 イ短調♬ヴァイオリンソナタ第5番 ヘ長調「春」♬ピアノソナタ第12番 変イ長調 「葬送行進曲」♬ピアノソナタ第13番 変ホ長調「幻想曲風ソナタ」♬ピアノソナタ第15番 ニ長調「田園」
1802年(32歳)●前年からの健康上の問題が改善しないためヴェーリング医師からシュミット医師へ交代する。
●シュミット医師の助言により4月10月までウィーン郊外のハイリゲンシュタッドに移り住む。
●兄弟に宛て「ハイリゲンシュタットの遺書」を書き残す。●前年から重大な病気になっていたと思われる。ヴェーリングの手による健康状態の改善が遅々として進まない→医師交代(セイヤー)●グイチャルディに「ピアノソナタ月光」を献呈する。ただ、元々グイチャルディへの献呈を意図されていたわけではない。4月から10月までウィーン郊外の医師の助言でハイリゲンシュタットに移り住む。●ナポレオン終身統領と規定した。●この年、ベートーヴェンは市民権を得た模様。※※弦楽五重奏曲ハ長調作品29が1802年末にブライトコプフ・ウント・ヘルテルから印刷出版。※※弦楽五重奏曲ハ長調作品29が1802年末にアルタリア社からも出版。●この頃交響曲第3番の制作始める。🏠●ペータースプラッツ 11のハウス1に滞在(Über)
♬ヴァイオリンと管弦楽のためのロマンス第1番 ト長調♬弦楽四重奏曲 ヘ長調♬ピアノソナタ第17番 ニ短調「テンペスト」
1803年(33歳)●アン・デア・ウィーン劇場に住んでいたらしい。(Über)●すぐにライムグルベンガッセ26番地のハウス6に転居。(Über)※※リース報告では、ウィーンで弦楽五重奏曲ハ長調作品29が盗まれ、アルタリア社から出版された50部にインクで消し込み売れなくした。ベートーヴェンは手紙の中でアルタリアを大悪党と呼んだ。●4/5日オラトリオ-『オリーヴ山上のキリスト』(Christus am Ölberge)作品85がウィーンの帝国劇場と王立私立劇場で上演。(セイヤー)●1803年の夏、ベートーヴェンがパリの有名な製造業者であるエラール社からグランドピアノを贈られた。(セイヤー)●ベートーヴェンがレオノーレの作曲時、ヴィーデン劇場に一年間無料のアパートを借りた。
借りたが、宮廷に面していたため、気に入らなかった。(セイヤー)
→アルセルカゼルンのロテス・ハウスに部屋を借りた。●この頃交響曲第3番、ほぼ完成。♬交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」出版社へ印刷依頼。🏠●詳しくはわからないが、ビーダーホーフ(19,Döblinger Hauptstraße92)のアパートにも住んだ。(Über)
♬交響曲第2番 ニ長調♬『オリーヴ山上のキリスト』(Christus am Ölberge)作品85♬ヴァイオリンソナタ第6番 イ長調♬ヴァイオリンソナタ第7番 ハ短調♬ヴァイオリンソナタ第8番 ト長調♬ヴァイオリンソナタ第9番 イ長調「クロイツェル」♬弦楽四重奏曲 イ長調♬ピアノ三重奏曲♬ピアノソナタ第21番 ハ長調「ワルトシュタイン」
1804年(34歳)ナポレオンが皇帝を宣言する。
ナポレオン法典公布●交響曲第3番。交響曲に「ボナパルト」というタイトルを付けたが、ナポレオンが自らを皇帝を宣言したことに腹を立てタイトル名を削る。●ベートーヴェンのテーブルの上に交響曲が。ベートーヴェンはタイトルページの上部をつかんで完全に破り、地面に投げつけた。(信憑性!)
最初のページは書き直され、交響曲のタイトルは「シンフォニア・エロイカ」となった。(モリッツ・リヒノフスキーの通信/セイヤー)●1804年の初め当時の宮廷劇場の企業家フライヘル・フォン・ブラウンがアン・デア・ウィーン劇場を買い取った。→シカネーダーは解任され、ベートヴェンは契約が無効となった。●7月上旬、同居していたシュテファンとベートーヴェンはアパートの代金支払いのことでもめて喧嘩となり、ベートーヴェンはバーテンに移住する。(セイヤー)●7月上旬ブリューニングシュテファンとベートーヴェンは、アパートの代金支払いのことで、もめて喧嘩となる。(一緒に住んでいたので)→別々に住む。ベートーヴェンはバーテンに移住。(セイヤー)●ナポレオンハイチ革命で大敗する。ハイチは共和国として独立。●ジョセフィン・ブルンスヴィクの夫が亡くなり、ジョセフィンは未亡人となる。
1804~1809年にかけてベートヴェンからの情熱的なラブレターが現存する。(少なくとも14通)
ベートーヴェンとジョゼフィーヌの間に恋愛感情が芽生えた。
●シカネーダーが同劇場に復職した。ベートーヴェンも新たな契約ができた。(セイヤー)
ブラウン男爵はベートーヴェンにオペラを書くように進言している。●ベートーヴェンは、この進言より前から、レオノーレに取り組んでいたと思われる。🏠🏠●赤い家(ガルニゾンガッセ9番地)に住んだ。(Über)●11月に初めてパスクァラティハウス(1, Mölkerbastei 8)に部屋を借りた。(Über)
♬ピアノ、ヴァイオリンとチェロと管弦楽のための三重協奏曲 ハ長調♬交響曲第3番 変ホ長調「英雄」作品55初演 皇太子の宮殿
1805年(35歳)●この頃、3つのアパートがあった。(セイヤー)ナポレオン10月のウルムの戦役でオーストリア軍を破る。ウィーンを占領(10月20日)
ベルナドットがドナウ川沿いに進軍してザルツブルクに入った。ウィーンは無防備。(セイヤー)
●11月15日シェーンブルン宮殿のボナパルトは、オーストリアに対して宣戦布告。●このような中でフォデリオを公開しなくてはならなかった。公演日11月20日21日22日。
がしかし、ウィーンの街の中には、この公演にお金を払えるような貴族市民は逃げて居なくなっていた。初演は空席。●12月2日にアウステルリッツ郊外のプラツェン高地で激突。このアウステルリッツの戦いは三人の皇帝が一つの戦場に会したことから「三帝会戦」とも呼ばれる。ここはナポレオンの巧妙な作戦で完勝。●12月26日フランスとオーストリアの間でプレスブルク条約。(オーストリア:連合離脱、ヴェネチア、チロル譲渡)(Wiki)🏠●ベートーヴェン1805年にもヘッツェンドルフに住み、『フィデリオ』を書いた。●「フェデリオ」を書いたころ、同時に3つの家をもっていた。(セイヤー)
●シンドラー:聖歌隊隊員となる。(10歳:オロモウツ:チェコ)
♬『レオノーレ』第2番♬ピアノソナタ第23番 ヘ短調「熱情」
1806年(36歳)●ベートーヴェンはある音楽のスケッチに、こう書いている:「耳が聞こえないことは、もはや芸術の世界でも秘密にしておこう」
●ベートーヴェンの演奏は耳の不調で、演奏が荒々しかったと言う。(セイヤー1798〜1799)
1806年、耳の病気がますますひどくなったため、ハンガリーの浴場に行った。らしい。
●9月4日、甥カールが生まれる。
●9月4日、カール・ファン・ベートーヴェンが生まれる。(後に親権を争うことになった)(セイヤー)●フランス凱旋門はアウステルリッツの戦いでの勝利したナポレオンが建設を指示神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世は退位してオーストリア皇帝のみとなる(神聖ローマ帝国は名実ともに消滅)●大陸封鎖始まる。
イギリスを封じ込めてフランスと通商させてヨーロッパ大陸の経済を支配しようとして1806年11月21日に発令した経済封鎖命令である。
英国との貿易は全面的に禁止されている。大陸の 英国製品は没収された。英国発または英国宛の手紙はすべて破棄される。フランスや帝国にいた英国人は捕虜となった。イギリスの港に停泊している船なら、どんな船でもいい獲物だ。●リヒノフスキーと論争。(グレーツ城(チェコ語:フラデツ) に滞在中)このためベートーヴェンへの支払い停止に繋がる。
♬ピアノ協奏曲第4番 ト長調♬ヴァイオリン協奏曲 ニ長調♬『レオノーレ』第3番♬弦楽四重奏曲第7番 ヘ長調「ラズモフスキー1番」♬弦楽四重奏曲第8番 ホ短調「ラズモフスキー2番」♬弦楽四重奏曲第9番 ハ長調「ラズモフスキー3番」
1807年(37歳)●ジョセフィンは身分の違いから、家族の圧力によりベートーヴェンから身を引く。●12月ベートーヴェンは帝国劇場と王立宮廷劇場のディレクターに職を求めたが、無駄だった(収入面が理由だが、すでにベートーヴェンは現職というより巨匠だった)●ナポレオン:ティルジット条約により帝国とロシアの講和が成立。プロセイン王国は領土の半分を失う。
ナポレオンは敗戦国への締め付けをほどほどにするように進言される。(F Wiki)
♬交響曲第4番 変ロ長調♬ピアノ協奏曲 ニ長調♬序曲『コリオラン』 ハ短調
1808年(38歳)●『運命』で音楽史上初めて交響曲にトロンボーンやピッコロを導入
●運命・田園の公演時、ベートーヴェンのソロ演奏にて繰り返し演奏を失敗する。この失敗が難聴のためと思われ、後の「皇帝」1809年では、ソリストが自由に弾く個所をなくし、カデンツァ風の譜面にしたという。●運命・田園の公演、最後の演目で失敗する。(ベートーヴェンがソロ演奏者として最後演奏したところで繰り返し演奏をして間違える)→ウィーンを脱出しようとする(カッセル宮廷楽長就任の交渉を受けていた)→貴族に引き留められる(年金支給など)→残留を決意・・このときもルドルフ大公に支援されるルドルフ大公・・・生涯唯一貴族のピアノの弟子であり、ベートーヴェンの心の支えでもあった。公演での失敗は難聴のせいではないか・・・?  ソリストが自由に弾く個所をなくし、カデンツァ風の譜面にした→「皇帝」1809年(39歳)●11月ナポレオン末弟から引き抜き工作あり(キンスキー・ルドルフ等によって阻止される。カッセル宮廷のカペルマイスター(宮廷作曲家)の地位(ベートーヴェンはある程度乗り気だったと言われる/Popular Beethoven)
●グリンツィンガー通り64のランドハウス19(ベートーヴェン・グリルパルツァー・ハウス)に同時に住む。(Über)
♬交響曲第5番 ハ短調 運命交響曲第6番 ヘ長調「田園」♬チェロソナタ第3番 イ長調♬ピアノ三重奏曲第5番 ニ長調「幽霊」♬ピアノ三重奏曲第6番 変ホ長調
1809年 (39歳)●「クレッペルシュタール」(1, Teinfaltstraße 8-8a、Schreyvogelgasse 1と同じ)に住む。(Über)●オーストリアは、1809年、ナポレオンに対して再び起ち上がり、プロイセンは参加しなかったもののイギリスと組んで第五次対仏大同盟を結成する。4月のエックミュールの戦い(英語版)ではナポレオンが勝利。ナポレオンが勝利し、5月には二度目のウィーン進攻を果たす。 1809年オーストリア戦役
ザルツブルクをはじめとして、各地が分割され、オーストリア人口の5分の1、300万人流出。が、国民ではなくなった(Wiki)5/31日ハイドン、ナポレオンのウィーン侵攻による占領下で死亡。●オーストリア軍は1809年7月のヴァグラムの戦いでついに敗北●アカデミエスト通りに引っ越す。(Über)
♬ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 (皇帝)♬弦楽四重奏曲第10番 変ホ長調「ハープ」♬ピアノソナタ第24番 嬰ヘ長調「テレーゼ」♬ピアノソナタ第25番 ト長調「かっこう」♬ピアノソナタ第26番 変ホ長調「告別」
1810年(40歳)●テレーゼ・マルファッティ(1792-1851)に求婚。●4月「エリーゼのために」WoO59を作曲。●ナポレオン 1810年にオーストリア皇女マリ・ルイーズと再婚。●5月末に詩人クレメンス・ブレンターノの妹ベッティーナ・ブレンターノと知り合った。●パスクァラティの家に住む。(Über)♬楽四重奏曲第11番 ヘ短調「セリオーソ」♬バガテル第25番 イ短調 WoO 59『エリーゼのために』
1811年(41歳)オーストリア内通貨切り下げ措置により、5分の1の価値に下落してしまう。♬ピアノ三重奏曲第7番 変ロ長調「大公」
1812年(42歳)●2月、フランス軍はスウェーデンの西ポメラニアと当時のリューゲン島を占領。(ドWiki)●春に交響曲第7番の制作に着手。●4月5日、スウェーデンはロシアと同盟。(ドWiki)●5月9日、ナポレオンはパリを出発。(ドWiki)●5/16日ドレスデン会議 オーストリア初代皇帝やプロセイン王をはじめとして周辺同盟国が集合し、ロシア侵攻の支持を集めるためだった。●6月23日、ナポレオン メメルに向かう。馬が驚きナポレオンが落馬する。(ドWiki)●6/24日 ナポレオン:ロシア侵攻
(ヨーロッパ全土に強いていた大陸封鎖をロシアが解除したためであった)進軍開始は6月23日。(Wiki)
●1810年に再婚していたジョセフィーヌ1812年に離婚。 
 6月8日の日記にてプラハに行くと記す。●ベートーヴェンは6月29日午前4時にウィーンを出発。プラハへ。
●アントニー・ブレンターノは1812年7月1日午前2時に出発。プラハへ。
●7月2日、ベートーヴェンプラハに到着。(セイヤー)
●7月5日、ベートーヴェンテプリッツに到着。(セイヤー)(1日約66Km走破)●プラハ・オーバーポストアムツ・ツァイトゥングの外国人リストに到着記載されているのは7月1日にプラハに到着したベートーベンと、7月3日に到着したアントニー・ブレンターノ。(セイヤー)
●7月19日、21~23日ベートーヴェン、ゲーテとテプリッツで会う。
(テプリッツとは熱いと言う意味・ベートーヴェンの避暑地)
ベートーヴェン→ゲーテと口論になる。
ゲーテが皇室や役人にペコペコした事に、ベートーヴェンが腹を立てた。と言われる。(信憑性)●1810年に再婚していたジョセフィーヌ1812年に離婚。 
 6月8日の日記にてプラハに行くと記す。
 7月3日、プラハでベートーヴェンはある女性と出会い、その3日後に手紙(未発送)でその女性に手紙を書いた。・・・ベートーヴェンの「不滅の最愛の人」に対する手紙である。●テプリッツ事件 ドレスデン会議の後、ヨロッパ諸国の指導者を集めた後、以下の人たちをテプリッツに集めた。(現在の国境をチェコ側に超えたところにテプリッツがある)
(セイヤー)テプリッツに集まったのは、各国王室では
5月29日:皇帝フランツ・大勢の側近、ヴルブナ、アルタン・キンスキー、ジチなど。
6月4日:フランス皇后マリー・ルイーズ・従者、ヴュルツブルク大公・側近。
7月2日オーストリア皇后・宮廷。ザクセン公アントン・その妻、宮廷。
7月7日:ザクセ・ヴァイマール公爵。
7月14日:ザクセン王とその妻、宮廷。
7月25日:ザクセン公マクシミリアンとその妻、宮廷。
8月11日、15日:ヴィトゲンシュタイン公、フンボルト男爵、プロイセンに仕えるカーランド公など。
王室や外交界に属さなかった他の旅行者の例
4月19日:V. der Recke男爵夫人、DemoiselleMeißner。Tiedge氏。
7月 ウィーンの作曲家ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン氏。
7月8日:カール・フュルスト・フォン・リヒノフスキー氏。
7月:ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ、ヴァイマル公爵。
7月24日:地主のルートヴィヒ・フォン・アルニム男爵・妻・義妹のフォン・サヴィニー夫人がベルリンから。
8月5日:ヨアヒム・フライヘア・フォン・ミュンヒ=ベリングハウゼン。
8月7日:プラハのパートナー、クレメンス・ブレンターノ氏。
その他
●7月26日、ウィーン近郊のバーデンの町が大火災。ベートーヴェンは義援コンサートを開催。(セイヤー)●8月8日から9月7日まで、ベートーヴェンはフランツェンスブルンにいた。この時ウィーンからの友人であるブレンターノ一家も同じ時期にフランツェンスブルンに到着している。●「親愛なるベティーネ」の手紙を書く。●9月アマリー・フォン・セバルトとの恋。(前年にも会っている/テプリッツ)●9月16日 リンツ到着。●11月8日ヨハン・ファン・ベートーヴェンとテレーズ・オーバーマイヤー結婚。ベートーヴェンはこの結婚を阻止しようとした。●11月年金支給を約束していたフェルディナント・キンスキーが死亡→ベートーヴェン支払い継続訴え裁判に。死亡原因は落馬だった(セイヤー)
●生活状況悪化(Wiki) 
♬交響曲第7番 イ長調♬交響曲第8番 ヘ長調♬ヴァイオリンソナタ第10番 ト長調♬ピアノ三重奏曲 変ロ長調
1813年(43歳)●「ウェリントンのジーク」(Sieg oder Die Schlacht bei Vittoria op.91) 1814年にウィーン会議のために作曲された。ベートーヴェンはこれまでで最大の成功を収めた。 この後、徐々に暗雲・・・。●1813年4月12日 弟カスパー・カールは急激に病が悪化し、兄ベートーヴェンをカールの、後見人にするようにと、管理委員会に要請する。●1813年の夏のベートーヴェンが、身体的、家庭的な必要性に関して最も荒れ果てた状態にあった。(シュトライヒャー夫人)(セイヤー)●ベートーヴェンは 1813 年から 1814 年にかけて、ウィーン会議、ウェリントンの勝利、またはヴィットリアの戦いのために特別に作曲された作品を演奏し、最大の成功を収める。(Wiki)
●12月8日、交響曲第7番・ウェリントンの勝利をベートーヴェン指揮にて演奏するが、これは宮廷技師のメルツエルが企画したものであった。
 12月8日大学を借りてコンサート。交響曲第7番、ウェリントンの勝利演奏。
ベートーヴェンは指揮をした。(セイヤー)
宮廷技師であったメルツェル氏が企画。メルツェルはオートマトン(自動演奏のトランペット)を開発・演奏使用。

この後メルツエルがミュンヘンで勝手に演奏したため、ベートーヴェンが腹を立てた。(権利をめぐって1814年にはメルツエルを告訴する)●シンドラー1813 年ウィーンにやってくる。その秋からウィーン大学で法律と哲学を学ぶ。(ドWiki)
♬『ウェリントンの勝利』(戦争交響曲) Op.91
1814年(44歳)ナポレオンロシア遠征失敗。パリ陥落(王政復興)●メラー・バステイにあるバルテンシュタインの家の1階に引越し。●ベートーヴェンの古くからの友人であり庇護者であったカール・リヒノフスキー王子が、4月15日に亡くなった。

1814年、シンドラーは初めてベートーヴェンに接した。ライトナーの家。
シンドラーにとって貧しい学生の人生において、最も重要な出来事だった。(シンドラー伝)
セイヤーは「パスクワラ邸の4段の階段を上り、すぐに仕立て係の召使に案内され」とベートーヴェンの居た場所を言っている。🏠●1814年1月か2月と1814/1815年の冬、ベートーヴェンはバルテンシュタイン(後のラショーヴィン)の家(1, Mölkerbastei 10)に住む。(Über)
♬フィデリオ序曲
1815年(45歳)●11月15日 カスパル・カールの死(肺結核)により、甥カールの後見人権をめぐり義姉と争いとなる。●1815年、ナポレオンはエルバ島を脱出。ワーテルローの戦いで完敗。ナポレオンは再び退位。●1815年にウィーン大学で暴動が起こったとき、アントン・シンドラーはその扇動者の一人だった。
●1815年1月21日、彼は数週間拘束された。
●ベートーヴェンはシンドラーを招いて自分の体験を語ってもらった。(シンドラー伝)
🏠●1815年にはウンターデーブリンガー・ゲマインデハウス(19,Nußwaldgasse2、現在の市営住宅19, Silbergase 4に住む。(Über)🏠
♬『命名祝日』♬チェロソナタ第4番 ハ長調♬チェロソナタ第5番 ニ長調♬ピアノ三重奏曲 ヘ短調
1816年(46歳)●思い病に罹っており、しばしば自分が死ぬのではないかと思っている。(書籍ベートーヴェンの日記)
●カール(甥)の後見人に指名される。(書籍ベートーヴェンの日記)●この頃、完全に聴力を失ったと考えられている。🏠●Seilerstätte 21に住む。(Über)🏠
♬ピアノ三重奏曲 ト長調改訂
1817年(47歳)●仲たがいしていたメルツェル(1813年)とは裁判費用を折半することで和解。その後メトロノームを贈られる。●シンドラー:1817年に彼は弁護士の博士の事務所に就職。(ドイツWikipedia)メトロノームについて書き記し、自分はアレグロといった伝統的な速度表示を使用するのを止めると宣言している●ロンドン・フィルハーモニー協会から2曲の交響曲の委嘱を受けた。これが第9番につながる🏠🏠🏠●Gärtnergasse 5に住む。(Über)●時期不明だが、ハウプト通り26番地の3番館に住む。(Über)●同じく時期不明だが、エロイカガッセ2の19番館に住む。(Über)♬アレグレット ロ短調
1818年(48歳)●この頃からか会話帳を使い始めた。 聴力低下が進んだことで、ピアニストとしての演奏はもはや不可能となった。🏠●夏にメードリングに滞在した。(Über)♬ピアノソナタ第29番 変ロ長調「ハンマークラヴィーア」
1819年(49歳)●シンドラー:1819年にベートーヴェンの法律顧問となった。(🇩🇪Wiki)🏠🏠●トラウトゾンガッセ2の8番に住む。(Über)●夏にメードリングに滞在した。(Über) 
1820年(50歳)●3月20日 長年のパトロンでありピアノの弟子でもあったルドルフ大公がオロモウツの 大司教に即位することになっていた。→大規模な荘厳ミサの作曲を依頼された。→ 出来上がらない。1823年初旬まで遅れる。●4月8日の控訴院判決は、最終的にベートーヴェンを甥カールの後見人に任命し、共同後見人が彼をサポートすることを条件とした。(Wiki)🏠●Zu den zwei Wachsstöcken (8, Josefstädter Straße 57)に滞在。(Über) 
1821年(51歳)ナポレオン1821年5月5日に死去。(51歳)●1821年の夏、ひどい黄疸とおそらくアルコールの乱用により、肝硬変の前兆が現れた。(ドWiki)●1821年秋から1822年春にかけてはラントシュトラーセ・ハウプトシュトラーセ60番地に住む。(Über)🏠●ウンターデブリング(現在のシルベルガッセ9街19番地)に滞在。(Über) 
1822年(52歳)●1822年、シンドラーは法律事務所を辞めた。(シンドラー伝)
アントンシンドラーがファクトむとして仕える●シンドラーは9ヶ月間、ベートーヴェンのミサ・ソレムニスの添削に追われた。シンドラーには50ギルダーが支払われることになっていたが、それは受け取られなかった。●ライムグルーベンガッセ22番地に住む。(Über)
♬献堂式
1823年(53歳)●1823年、シンドラーはベートーヴェンの最後のソナタを聴いた。🏠🏠●1823年8/17ベートヴェンは、バーデンにある「第9の家」に引っ越す。(ベートヴェンハウス/バーデン)●ヘッツェンドルファー・シュトラーセ75番地に住む。(Über)ミサ・ソレムニスニ長調作品123
1824年(54歳)●5/1ヴァッサーホーフに引っ越し。🏠♬5/7:交響曲第9番初演 聴衆の熱狂的な支持を得た。影の指揮:ミヒャエル・ウムラウフ、ベートーヴェンは指揮台に立つ。:ケルントナートーア劇場。(Wiki/セイヤー)
注)ベートーヴェンは自ら指揮、狂人のように前後に動いた。- 実際の指揮はデュポルツの手にあり、音楽家は彼のタクトを眺めるだけだった。(ヴァイオリニストのベーム/セイヤー)●第9公演の会計疑惑問題が発生し、ベートーヴェンは(ウムラウフ、シンドラー、シュッパンツィグ)を容疑者とした。収入2200Flに対して、経費差し引き後420Fl。その後、ベートーヴェンとシンドラーの友好関係は断絶した。2度の演奏会は大赤字。🏠●カントリーハウス(19, Kahlenberger Strasse 26)の1階にあるアパートに住む。(Über)
♬交響曲第9番 ニ短調 (合唱付き)
1825年(55歳)●このころから第10番作曲始める●甥のカール:ウィーン大学へ入学。●3/21 英国で「第9交響曲」初演。(演奏時間は63分)●1825年夏、シンドラーとの決別(シンドラー秘書は追い出される。)
シュッパンツィヒ四重奏団の第2ヴァイオリン奏者であったカール・ホルツが、個人秘書と顧問の機能を引き継いだ。
♬弦楽四重奏曲第12番 変ホ長調♬弦楽四重奏曲第13番 変ロ長調♬弦楽四重奏曲第15番 イ短調
1826年(56歳)●7月甥カール 拳銃を購入。(時計を質に入れて)(Wiki)●8月6日甥カールのピストルで自殺未遂Wiki。ベートーヴェンは最愛の甥に否定されショックを受ける→後見人を辞任した。(Wiki)●シンドラーと和解。(これを疑う研究者もいる)♬弦楽四重奏曲第14番 嬰ハ短調♬大フーガ 変ロ長調♬弦楽四重奏曲第16番 ヘ長調
1827年(57歳)●3月26日ベートーヴェン死去56歳。「シュヴァルツスパニアハウス」(9, Schwarzspanierstraße 15;Beethoven-Sterbehaus)
ヴェーリンガー・オルトフリートホーフでの葬儀は、ウィーンの市民が大勢参列する中で執り行われた[116]。葬列には約2万人が参加したと言われている。●1827年11月3日にベートーヴェンの遺品がすべて売却された。(シンドラー伝)●死の前まで、交響曲第10番に取り組み、2021年人工知能の力で演奏まで漕ぎ着ける
♬交響曲第10番(未完・スケッチのみ)
 ●1832年 甥カール結婚。4人の娘と一人息子を授かる。●1840年 シンドラー「ベートーヴェンの生涯」第一版を刊行。●1842年 シンドラー「ベートーヴェンの生涯」第二版を刊行。●1858年4月13日 甥カール肝臓病にて死去。51歳。●1860年 シンドラー「ベートーヴェンの生涯」第三版を刊行。●1864年1月16日 シンドラー死去。(肺麻痺69歳)●1978年頃、フィリップスと ソニーが導入したオーディオCDの長さは、当時のソニー副社長でドイツで活躍したオペラ歌手の大賀典雄の提案で、「交響曲第9番を全曲、CDを交換せずに聴けるように」と74分に設定された(と言われる)●1920年板東俘虜収容所、徳島俘虜収容所で交響曲第9番、歓喜の歌、ドイツ人捕虜によって日本初演奏される。●1998年長野オリンピックで小澤征爾指揮のもと、衛星中継を使い、世界各国で交響曲第9番を同時演奏した。 Thayer, Alexander Wheelock(セイヤー,アレキサンダー・ウィーロック)
ハーヴァード大学ロースクールの司書であったが、アントン・シントラー(ベートーヴェンのもと筆耕)によるベートーヴェン伝(1840年発表)の数々の矛盾点に気付く(ベートーヴェン研究家が、シントラーの作り話や、信頼感のなさを積極的に指摘するのはその後のことである)。1849年にヨーロッパに渡り、ドイツ語を学習し情報を蒐集して独自の研究に取り掛かる。ジャーナリズムで生計を立てつつ、何かと困窮した末に、ついにトリエステのアメリカ領事に任命され、力作を追究することが可能になる。自身のドイツ語によるベートーヴェン伝の初版は、1866年から1879年にかけて3冊に分けて公表され、1816年までのベートーヴェンが扱われている。セイヤーの没後に、先ずはその僚友Hermann Deitersによって、Deiters自身が死去するとフーゴー・リーマンによって、セイヤーの覚書に基づく第4巻(1907年)と第5巻(1908年)が出版された。この2冊では、1817年からベートーヴェンの没年までが扱われている。(Wiki日本語版より)(今演奏会では、全巻セイヤーと称して扱っている。)
本年表は、このセイヤーの伝記(パブリックドメイン)、及び、ウィキペディア(CC BY-SA 4.0)日本語、ドイツ語、フランス語、英語、イタリア語を主に参照しています。JA.WIKIPEDIA.ORG “https://ja.wikipedia.org/wiki/ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン”ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン – WikipediaZENO.ORG “http://www.zeno.org/Musik/M/Thayer,+Alexander+Wheelock/Ludwig+van+Beethovens+Leben”🏠は引越し
 
   

Alexander Wheelock Thayer–Ludwig van Beethovens Leben(セイヤーによるベートーヴェンの生涯)