年号 | 内容 | その他 |
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1770年(0歳) | ●12月16日 神聖ローマ帝国のボンに生まれる。祖父:宮廷の優れた歌手・鍵盤楽器奏者・楽長・ベートーヴェンと同名。 父:ヨハン・ヴァン・ベートーヴェン 宮廷の歌手。母マリア・マグダレーナ・ケーヴェリヒ・ライム。 | 前年1769年8月15日にナポレオンボナパルトが生まれる。 |
1773年(3歳) | ●12月24日祖父が亡くなり、次第に貧しくなる。 父親、および仲間である宮廷音楽家などから音楽を習う。しかし、父親はアルコール依存症/虐待的。●父親の目的→息子の音楽的才能を早く開花→「儲かる商品」に。公立の小学校の学校教育のみ。(英Wiki) | |
1778年(8歳) | ●3月26日 ケルンでの演奏会に出演。ピアニストとしてコンサートデビュー。 (ベートーベンの亡くなった日も3月26日。コンサートデビューと命日が同じ)ヨハン(父親)が公開演奏のポスターには、ベートーベンは6歳(本人は7歳)だったと記載。ベートーヴェンも自分の年齢を知らなかった。●幼い頃からボンを歩き回り、その美しい環境を知っていた。 (セイヤー) | |
1781年(10歳) | ●母親は冬の初め小さなルートヴィヒを連れてオランダへ旅したとき、船の中はとても寒く、霜から守るために彼の足を膝に抱え、冷たい足を懐で温めた。(セイヤー) | |
1780年か1781年(10歳か11歳) | ●クリスチャン・ゴットローブ・ニーフェに師事。(宮廷オルガニストとしてニーフェの助手となる) ニーフェは、作曲家・名オルガニストとして有名な人物。クラヴィーア、オルガン、通奏低音、作曲法を体系的に学ぶことにより、演奏技術が格段に向上。 | |
1782年(12歳) | ●宮廷オルガニストとして多忙を極めるニーフェの代理など行う。ニーフェは重要な場面で代役を任せる、ベートーヴェンの曲を出版するなどチャンスを与えた。 ●親友となるフランツ・ゲルハルト・ヴェーゲラーと知り合う。 | ♬ドレスラーの行進曲による9つの変奏曲 ハ短調 |
1783年(13歳) | ♬最初の出版作品、「鍵盤変奏曲集(WoO 63」)を発表 「選帝侯ソナタ」出版。 ●21歳になったばかりの、フランツ・ゲオルクが8月16日に亡くなった(セイヤー) | ♬鍵盤変奏曲集 |
1784年(14歳) | ●ヴェーゲラーを通じてフォン ブロイニング家にピアノ教師として雇われる。●フォン・ブロイニング家族は、母親と3人の息子、次女で構成されていた。母親(ヘレン)は若きベートーベンの才能、感性、知性に心を奪われ、彼を自分の子供の一人として受け入れた(後に「2番目の母」と呼ばれる)。 | ♬ピアノ協奏曲 変ホ長調 |
1785年(15歳) | ●宮廷のオルガン奏者になる。宮廷楽団のチェンバロ奏者、ヴィオラ奏者としても活躍した。ワルトシュタイン伯爵の後援をうける。 | |
1786年(16歳) | ●1786年12月末、ベートーヴェンはモーツァルトに作曲を学ぶため、マクシミアン・フランツ | ♬ロマンツェ・カンタービレ ホ短調 |
1787年(17歳) | ●2週間ほど滞在したが、モーツアルトに会えたかは不明。 ●母親危篤の知らせでボンに戻る。 ●1787年7月17日母親が亡くなる。(41歳) | |
1788年(18歳) | ●一家の長として家計を支える。父の年金の半分は家族を養うためにルートヴィヒに直接支払われるよう命じられた。 | |
1789年(19歳) | フランス革命勃発 | ♬『騎士のバレエ』 |
1790年(20歳) | エステルハージ音楽院を廃止。このため30年勤務したハイドンは解雇。 | ♬メヌエット 変イ長調 |
1791年(21歳) | 12月5日モーツァルト死去。(35歳)ハイドンがロンドン旅行の経路でボンに寄り、ベートーヴェンの演奏を聴く。能力を認め、いずれウィーンに来るように約束している。 | ♬ピアノ三重奏曲 変ホ長調 |
1792年(22歳) | ●ハイドンに弟子入りする。ハイドン(53歳)に才能を認められ弟子入りする。●ウィーンに移住。12月18日に父親が急死。葬儀はヴェーゲラーたちが済ませた。(52歳)(ボン/ベートヴェンは帰らず)🏠🏠 その後「リヒノフスキー公爵のアルセルガッセの45番」に転居(セイヤー) | ♬ヴァイオリン協奏曲 ハ長調♬弦楽四重奏曲 ホ長調♬ピアノ三重奏曲 変ホ長調♬アレグレット 変ホ長調 |
1793年(23歳) | ●ヨハン・シェンク、アルブレヒツベルガーのもと、対位法など学ぶ。 サリエリは「裕福でない音楽家には無料でレッスンをする」ことをしていたので、ベートヴェンはそれを利用した。(セイヤー) 1800年以降、リヒノフスキーはベートーヴェンに600グルデンの年俸を支払う。 1802年以降、彼は市民としての権利も享受した。●ベートーヴェンは、約2年後発表された作品1-1〜1-3のピアノ三重奏曲をリヒノスキー侯爵邸で演奏。 ハイドンは1と2は大変評価したが、3番は出版しないようにと忠告した。しかしこれはハイドンの妬み嫉妬であった。(セイヤー22章) ナポレオン発案の軍事作戦が成功し、旅団将軍(少尉相当)に昇進 | ♬オーボエ協奏曲 ヘ長調 |
1794年(24歳) | ●1月ハイドンがイギリスに渡ったため、ハイドンのレッスンはここまで。 | ♬ピアノと管弦楽のためのロンド 変ロ長調♬前奏曲とフーガ ヘ長調 ♬前奏曲とフーガ ハ長調♬ピアノ三重奏曲第1番 変ホ長調さ作品1−1 |
1795年(25歳) | ●アントニオ・サリエリから声楽の指導を受ける。 サリエリは「裕福でない音楽家には無料でレッスンをする」ことをしていたので、ベートヴェンはそれを利用した。(セイヤー)ハイドンがイギリスへの演奏旅行から帰国すると同年に完成した3曲のピアノソナタをハイドンに献呈した。 ( 鎮圧に成功したナポレオンは、国内軍司令官の役職を手にいれる。●6/13 アントン・シンドラー 生まれる(シンドラー伝)🏠 | ♬ピアノ三重奏曲Op.1♬ピアノ協奏曲第1番 ハ長調♬ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調♬前奏曲の終結部 ニ短調♬ピアノソナタ第1番 ヘ短調 作品2-1 ♬ピアノソナタ第2番 イ長調 作品2-2 ♬ピアノソナタ第3番 ハ長調 作品2-3♬ピアノ三重奏曲第2番 ト長調さ作品1-2♬ピアノ三重奏曲第3番 ハ短調さ作品1-3 |
1796年(26歳) | ●プラハ・ライプツヒ・・六か月間に及ぶ演奏会旅行。(実質的なコンサートツアー)●ナポレオン:オーストリア帝国包囲のため、イタリア方面司令官に抜擢される。●オーストリアでは、政府も国民も侵略の危機への期待と恐怖に包まれ、一般蜂起が起こり、帝国各地で義勇軍が結成された。(セイヤー1796〜1797) ウィーン市民への別れの曲・オーストリア戦闘の歌(オーストリア軍歌)・・・・・愛国的な2曲がウィーンで歓迎される。 | ♬チェロソナタ第1番 ヘ長調♬チェロソナタ第2番 ト短調 |
1797年(27歳) | ●4月ナポレオン軍はウィーンに迫り、独断で講和交渉に入る。これによりフランスは広大な領土を手中にし、幾つもの衛星国を建設し、膨大な戦利品を得た。●ナポレオン軍オーストリアに侵攻目標設定、貴族たちはハンガリーに避難を始めた。ところが、ウィーンから100 Kmのところで予備講和を申し出て停戦が実現。(英Wiki) ナポレオン ウィーンにて講和交渉カンポ・フォルミオ条約●12月、パリへと帰還したフランスの英雄ナポレオンは熱狂的な歓迎(Wiki) ●12月 ラシュタット会議 99年4月まで(オーストリア✖️フランス代表の三人中2名が暗殺される)これにより戦争再開。 | ♬ピアノ三重奏曲第4番 変ロ長調「街の歌」 |
1798年(28歳) | ●ある日、来客。作曲中にドアがノック。自分の邪魔をされ立腹、ドアに駆け寄り一歩踏み出した瞬間、椅子を倒して地面に顔を打つ。すぐに耳がガンガンし始めた。ベートーヴェンの耳との闘いの原点となった日である。聴力は良くなる時期もあったが、回復することはなかった。ベートーヴェンは徐々に聴力を失い、最初は高音から、1814年には完全に聴力を失った。(Popular Beethoven) | ♬ヴァイオリンと管弦楽のためのロマンス第2番 ヘ長調♬ヴァイオリンソナタ第1番 ニ長調♬ヴァイオリンソナタ第2番 イ長調♬ヴァイオリンソナタ第3番 変ホ長調♬オラトリオ『ソロモン』の序曲♬弦楽四重奏曲第3番 ニ長調 |
1799年(29歳) | ●ジョセフィン・ブルンスヴィクに恋をする。 ●ナポレオン勝手にエジプトからフランスに戻る。●ナポレオンブリュメール18日のクーデタを起こす。●ナポレオン 統領政府を樹立し自ら第一統領(第一執政)となり、実質的に独裁権握る。●ナポレオンはアルプス山脈をグラン・サン・ベルナール峠越え。(イタリア奪還へ)🏠 | ♬ピアノソナタ第8番 ハ短調「悲愴」 |
1800年(30歳) | ●ボンで世話になっていた選帝侯マクシミリアン・フランツがわずかな側近とともに、ウィーンのエステルハージィ庭園に逃亡し、シェーンブルン庭園の裏手にある小さな城 | ♬交響曲第1番 ハ長調♬ピアノ協奏曲第3番 ハ短調♬弦楽四重奏曲第1番 ヘ長調♬弦楽四重奏曲第2番 ト長調「挨拶する」♬弦楽四重奏曲第3番 ニ長調♬弦楽四重奏曲第5番 イ長調♬弦楽四重奏曲第6番 変ロ長調 |
1801年(31歳) | ●ブルンスヴィック姉妹を通じ「ジュリエッタ・グイチャルディ」と知り合いになり、彼女の虜になる。短期間恋に落ちる。 | ♬ピアノソナタ第14番 嬰ハ短調「幻想曲風ソナタ」(月光)♬『プロメテウスの創造物』♬ヴァイオリンソナタ第4番 イ短調♬ヴァイオリンソナタ第5番 ヘ長調「春」♬ピアノソナタ第12番 変イ長調 「葬送行進曲」♬ピアノソナタ第13番 変ホ長調「幻想曲風ソナタ」♬ピアノソナタ第15番 ニ長調「田園」 |
1802年(32歳) | ●前年からの健康上の問題が改善しないためヴェーリング医師からシュミット医師へ交代する。 ●シュミット医師の助言により4月10月までウィーン郊外のハイリゲンシュタッドに移り住む。 ●兄弟に宛て「ハイリゲンシュタットの遺書」を書き残す。 | ♬ヴァイオリンと管弦楽のためのロマンス第1番 ト長調♬弦楽四重奏曲 ヘ長調♬ピアノソナタ第17番 ニ短調「テンペスト」 |
1803年(33歳) | ●アン・デア・ウィーン劇場に住んでいたらしい。(Über)●すぐにライムグルベンガッセ26番地のハウス6に転居。(Über)※※リース報告では、ウィーンで弦楽五重奏曲ハ長調作品29が盗まれ、アルタリア社から出版された50部にインクで消し込み売れなくした。ベートーヴェンは手紙の中でアルタリアを大悪党と呼んだ。●4/5日オラトリオ-『オリーヴ山上のキリスト』(Christus am Ölberge)作品85がウィーンの帝国劇場と王立私立劇場で上演。(セイヤー)●1803年の夏、ベートーヴェンがパリの有名な製造業者であるエラール社からグランドピアノを贈られた。(セイヤー)●ベートーヴェンがレオノーレの作曲時、ヴィーデン劇場に一年間無料のアパートを借りた。 借りたが、宮廷に面していたため、気に入らなかった。(セイヤー) →アルセルカゼルンのロテス・ハウスに部屋を借りた。●この頃交響曲第3番、ほぼ完成。♬交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」出版社へ印刷依頼。🏠 | ♬交響曲第2番 ニ長調♬『オリーヴ山上のキリスト』(Christus am Ölberge)作品85♬ヴァイオリンソナタ第6番 イ長調♬ヴァイオリンソナタ第7番 ハ短調♬ヴァイオリンソナタ第8番 ト長調♬ヴァイオリンソナタ第9番 イ長調「クロイツェル」♬弦楽四重奏曲 イ長調♬ピアノ三重奏曲♬ピアノソナタ第21番 ハ長調「ワルトシュタイン」 |
1804年(34歳) | ナポレオンが皇帝を宣言する。 ナポレオン法典公布●交響曲第3番。交響曲に「ボナパルト」というタイトルを付けたが、ナポレオンが自らを皇帝を宣言したことに腹を立てタイトル名を削る。 最初のページは書き直され、交響曲のタイトルは「シンフォニア・エロイカ」となった。( 1804~1809年にかけてベートヴェンからの情熱的なラブレターが現存する。(少なくとも14通) ベートーヴェンとジョゼフィーヌの間に恋愛感情が芽生えた。 ●シカネーダーが同劇場に復職した。ベートーヴェンも新たな契約ができた。(セイヤー) ブラウン男爵はベートーヴェンにオペラを書くように進言している。●ベートーヴェンは、この進言より前から、レオノーレに取り組んでいたと思われる。🏠🏠 | ♬ピアノ、ヴァイオリンとチェロと管弦楽のための三重協奏曲 ハ長調♬交響曲第3番 変ホ長調「英雄」作品55初演 皇太子の宮殿 |
1805年(35歳) | ベルナドットがドナウ川沿いに進軍してザルツブルクに入った。ウィーンは無防備。(セイヤー) ●11月15日シェーンブルン宮殿のボナパルトは、オーストリアに対して宣戦布告。●このような中でフォデリオを公開しなくてはならなかった。公演日11月20日21日22日。 がしかし、ウィーンの街の中には、この公演にお金を払えるような貴族市民は逃げて居なくなっていた。初演は空席。 ●シンドラー:聖歌隊隊員となる。(10歳:オロモウツ:チェコ) | ♬『レオノーレ』第2番♬ピアノソナタ第23番 ヘ短調「熱情」 |
1806年(36歳) | ●ベートーヴェンはある音楽のスケッチに、こう書いている:「耳が聞こえないことは、もはや芸術の世界でも秘密にしておこう」 ●9月4日、甥カールが生まれる。 イギリスを封じ込めてフランスと通商させてヨーロッパ大陸の経済を支配しようとして1806年11月21日に発令した経済封鎖命令である。 | ♬ピアノ協奏曲第4番 ト長調♬ヴァイオリン協奏曲 ニ長調♬『レオノーレ』第3番♬弦楽四重奏曲第7番 ヘ長調「ラズモフスキー1番」♬弦楽四重奏曲第8番 ホ短調「ラズモフスキー2番」♬弦楽四重奏曲第9番 ハ長調「ラズモフスキー3番」 |
1807年(37歳) | ●ジョセフィンは身分の違いから、家族の圧力によりベートーヴェンから身を引く。●12月ベートーヴェンは帝国劇場と王立宮廷劇場のディレクターに職を求めたが、無駄だった( ナポレオンは敗戦国への締め付けをほどほどにするように進言される。(F Wiki) | ♬交響曲第4番 変ロ長調♬ピアノ協奏曲 ニ長調♬序曲『コリオラン』 ハ短調 |
1808年(38歳) | ●『運命』で音楽史上初めて交響曲にトロンボーンやピッコロを導入 ●運命・田園の公演時、ベートーヴェンのソロ演奏にて繰り返し演奏を失敗する。この失敗が難聴のためと思われ、後の「皇帝」1809年では、ソリストが自由に弾く個所をなくし、カデンツァ風の譜面にしたという。 | ♬交響曲第5番 ハ短調 運命♬交響曲第6番 ヘ長調「田園」♬チェロソナタ第3番 イ長調♬ピアノ三重奏曲第5番 ニ長調「幽霊」♬ピアノ三重奏曲第6番 変ホ長調 |
1809年 (39歳) | ザルツブルクをはじめとして、各地が分割され、オーストリア人口の5分の1、300万人流出。 | ♬ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 (皇帝)♬弦楽四重奏曲第10番 変ホ長調「ハープ」♬ピアノソナタ第24番 嬰ヘ長調「テレーゼ」♬ピアノソナタ第25番 ト長調「かっこう」♬ピアノソナタ第26番 変ホ長調「告別」 |
1810年(40歳) | ●テレーゼ・マルファッティ(1792-1851)に求婚。●4月「エリーゼのために」WoO59を作曲。●ナポレオン 1810年にオーストリア皇女マリ・ルイーズと再婚。●5月末に詩人クレメンス・ブレンターノの妹ベッティーナ・ブレンターノと知り合った。 | ♬楽四重奏曲第11番 ヘ短調「セリオーソ」♬バガテル第25番 イ短調 WoO 59『エリーゼのために』 |
1811年(41歳) | オーストリア内通貨切り下げ措置により、5分の1の価値に下落してしまう。 | ♬ピアノ三重奏曲第7番 変ロ長調「大公」 |
1812年(42歳) | ●2月、フランス軍はスウェーデンの西ポメラニアと当時のリューゲン島を占領。(ドWiki)●春に交響曲第7番の制作に着手。 (ヨーロッパ全土に強いていた大陸封鎖をロシアが解除したためであった)進軍開始は6月23日。(Wiki) ●1810年に再婚していたジョセフィーヌ1812年に離婚。 6月8日の日記にてプラハに行くと記す。●ベートーヴェンは6月29日午前4時にウィーンを出発。プラハへ。 ●アントニー・ブレンターノは1812年7月1日午前2時に出発。プラハへ。 ●7月2日、ベートーヴェンプラハに到着。(セイヤー) ●7月5日、ベートーヴェンテプリッツに到着。(セイヤー)(1日約66Km走破)●プラハ・オーバーポストアムツ・ツァイトゥングの外国人リストに到着記載されているのは7月1日にプラハに到着したベートーベンと、7月3日に到着したアントニー・ブレンターノ。(セイヤー) ●7月19日、21~23日ベートーヴェン、ゲーテとテプリッツで会う。 (テプリッツとは熱いと言う意味・ベートーヴェンの避暑地) ベートーヴェン→ゲーテと口論になる。 ゲーテが皇室や役人にペコペコした事に、ベートーヴェンが腹を立てた。と言われる。(信憑性) (セイヤー) 6月4日:フランス皇后マリー・ルイーズ・従者、ヴュルツブルク大公・側近。 7月2日オーストリア皇后・宮廷。ザクセン公アントン・その妻、宮廷。 7月7日:ザクセ・ヴァイマール公爵。 7月14日:ザクセン王とその妻、宮廷。 7月25日:ザクセン公マクシミリアンとその妻、宮廷。 8月11日、15日:ヴィトゲンシュタイン公、フンボルト男爵、プロイセンに仕えるカーランド公など。 4月19日:V. der Recke男爵夫人、DemoiselleMeißner。Tiedge氏。 7月 ウィーンの作曲家ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン氏。 7月8日:カール・フュルスト・フォン・リヒノフスキー氏。 7月:ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ、ヴァイマル公爵。 7月24日:地主のルートヴィヒ・フォン・アルニム男爵・妻・義妹のフォン・サヴィニー夫人がベルリンから。 8月5日:ヨアヒム・フライヘア・フォン・ミュンヒ=ベリングハウゼン。 8月7日:プラハのパートナー、クレメンス・ブレンターノ氏。 その他 ●生活状況悪化(Wiki) | ♬交響曲第7番 イ長調♬交響曲第8番 ヘ長調♬ヴァイオリンソナタ第10番 ト長調♬ピアノ三重奏曲 変ロ長調 |
1813年(43歳) | ●12月8日、交響曲第7番・ウェリントンの勝利をベートーヴェン指揮にて演奏するが、これは宮廷技師のメルツエルが企画したものであった。 ベートーヴェンは指揮をした。(セイヤー) 宮廷技師であったメルツェル氏が企画。メルツェルはオートマトン(自動演奏のトランペット)を開発・演奏使用。 この後メルツエルがミュンヘンで勝手に演奏したため、ベートーヴェンが腹を立てた。(権利をめぐって1814年にはメルツエルを告訴する)●シンドラー1813 年ウィーンにやってくる。その秋からウィーン大学で法律と哲学を学ぶ。(ドWiki) | ♬『ウェリントンの勝利』(戦争交響曲) Op.91 |
1814年(44歳) | ●ナポレオンロシア遠征失敗。パリ陥落(王政復興)●メラー・バステイにあるバルテンシュタインの家の1階に引越し。●ベートーヴェンの古くからの友人であり庇護者であったカール・リヒノフスキー王子が、4月15日に亡くなった。 ●1814年、シンドラーは初めてベートーヴェンに接した。ライトナーの家。 セイヤーは「パスクワラ邸の4段の階段を上り、すぐに仕立て係の召使に案内され」とベートーヴェンの居た場所を言っている。🏠 | ♬フィデリオ序曲 |
1815年(45歳) | ●11月15日 カスパル・カールの死(肺結核)により、甥カールの後見人権をめぐり義姉と争いとなる。●1815年、ナポレオンはエルバ島を脱出。ワーテルローの戦いで完敗。ナポレオンは再び退位。●1815年にウィーン大学で暴動が起こったとき、アントン・シンドラーはその扇動者の一人だった。 ●1815年1月21日、彼は数週間拘束された。 ●ベートーヴェンはシンドラーを招いて自分の体験を語ってもらった。(シンドラー伝) 🏠 | ♬『命名祝日』♬チェロソナタ第4番 ハ長調♬チェロソナタ第5番 ニ長調♬ピアノ三重奏曲 ヘ短調 |
1816年(46歳) | ●思い病に罹っており、しばしば自分が死ぬのではないかと思っている。 ●カール(甥)の後見人に指名される。 | ♬ピアノ三重奏曲 ト長調改訂 |
1817年(47歳) | ●仲たがいしていたメルツェル(1813年)とは裁判費用を折半することで和解。その後メトロノームを贈られる。●シンドラー:1817年に彼は弁護士の博士の事務所に就職。(ドイツWikipedia)●メトロノームについて書き記し、自分はアレグロといった伝統的な速度表示を使用するのを止めると宣言している●ロンドン・フィルハーモニー協会から2曲の交響曲の委嘱を受けた。これが第9番につながる🏠🏠🏠 | ♬アレグレット ロ短調 |
1818年(48歳) | ●この頃からか会話帳を使い始めた。 聴力低下が進んだことで、ピアニストとしての演奏はもはや不可能となった。🏠 | ♬ピアノソナタ第29番 変ロ長調「ハンマークラヴィーア」 |
1819年(49歳) | ●シンドラー:1819年にベートーヴェンの法律顧問となった。(🇩🇪Wiki)🏠🏠 | |
1820年(50歳) | ●3月20日 長年のパトロンでありピアノの弟子でもあったルドルフ大公がオロモウツの 大司教に即位することになっていた。→大規模な荘厳ミサの作曲を依頼された。→ 出来上がらない。1823年初旬まで遅れる。●4月8日の控訴院判決は、最終的にベートーヴェンを甥カールの後見人に任命し、共同後見人が彼をサポートすることを条件とした。(Wiki)🏠 | |
1821年(51歳) | ●ナポレオン1821年5月5日に死去。(51歳)●1821年の夏、ひどい黄疸とおそらくアルコールの乱用により、肝硬変の前兆が現れた。(ドWiki)●1821年秋から1822年春にかけてはラントシュトラーセ・ハウプトシュトラーセ60番地に住む。(Über)🏠 | |
1822年(52歳) | ●1822年、シンドラーは法律事務所を辞めた。(シンドラー伝) アントンシンドラーがファクトむとして仕える●シンドラーは9ヶ月間、ベートーヴェンのミサ・ソレムニスの添削に追われた。シンドラーには50ギルダーが支払われることになっていたが、それは受け取られなかった。 | ♬献堂式 |
1823年(53歳) | ●1823年、シンドラーはベートーヴェンの最後のソナタを聴いた。🏠🏠 | ♬ミサ・ソレムニスニ長調作品123 |
1824年(54歳) | 注)ベートーヴェンは自ら指揮、狂人のように前後に動いた。- 実際の指揮はデュポルツの手にあり、音楽家は彼のタクトを眺めるだけだった。(ヴァイオリニストのベーム/セイヤー)●第9公演の会計疑惑問題が発生し、ベートーヴェンは(ウムラウフ、シンドラー、シュッパンツィグ)を容疑者とした。収入2200Flに対して、経費差し引き後420Fl。その後、ベートーヴェンとシンドラーの友好関係は断絶した。2度の演奏会は大赤字。🏠 | ♬交響曲第9番 ニ短調 (合唱付き) |
1825年(55歳) | ●このころから第10番作曲始める●甥のカール:ウィーン大学へ入学。●3/21 英国で「第9交響曲」初演。(演奏時間は63分)●1825年夏、シンドラーとの決別(シンドラー秘書は追い出される。) シュッパンツィヒ四重奏団の第2ヴァイオリン奏者であったカール・ホルツが、個人秘書と顧問の機能を引き継いだ。 | ♬弦楽四重奏曲第12番 変ホ長調♬弦楽四重奏曲第13番 変ロ長調♬弦楽四重奏曲第15番 イ短調 |
1826年(56歳) | ●7月甥カール 拳銃を購入。(時計を質に入れて)(Wiki)●8月6日甥カールのピストルで自殺未遂 | ♬弦楽四重奏曲第14番 嬰ハ短調♬大フーガ 変ロ長調♬弦楽四重奏曲第16番 ヘ長調 |
1827年(57歳) | ●3月26日ベートーヴェン死去56歳。「シュヴァルツスパニアハウス」(9, Schwarzspanierstraße 15;Beethoven-Sterbehaus) ヴェーリンガー・オルトフリートホーフでの葬儀は、ウィーンの市民が大勢参列する中で執り行われた | ♬交響曲第10番(未完・スケッチのみ) |
●1832年 甥カール結婚。4人の娘と一人息子を授かる。●1840年 シンドラー「ベートーヴェンの生涯」第一版を刊行。●1842年 シンドラー「ベートーヴェンの生涯」第二版を刊行。●1858年4月13日 甥カール肝臓病にて死去。51歳。●1860年 シンドラー「ベートーヴェンの生涯」第三版を刊行。●1864年1月16日 シンドラー死去。(肺麻痺69歳)●1978年頃、フィリップスと ソニーが導入したオーディオCDの長さは、当時のソニー副社長でドイツで活躍したオペラ歌手の大賀典雄の提案で、「交響曲第9番を全曲、CDを交換せずに聴けるように」と74分に設定された(と言われる)●1920年板東俘虜収容所、徳島俘虜収容所で交響曲第9番、歓喜の歌、ドイツ人捕虜によって日本初演奏される。●1998年長野オリンピックで小澤征爾指揮のもと、衛星中継を使い、世界各国で交響曲第9番を同時演奏した。 Thayer, Alexander Wheelock(セイヤー,アレキサンダー・ウィーロック) ハーヴァード大学ロースクールの司書であったが、アントン・シントラー(ベートーヴェンのもと筆耕)によるベートーヴェン伝(1840年発表)の数々の矛盾点に気付く(ベートーヴェン研究家が、シントラーの作り話や、信頼感のなさを積極的に指摘するのはその後のことである)。1849年にヨーロッパに渡り、ドイツ語を学習し情報を蒐集して独自の研究に取り掛かる。ジャーナリズムで生計を立てつつ、何かと困窮した末に、ついにトリエステのアメリカ領事に任命され、力作を追究することが可能になる。自身のドイツ語によるベートーヴェン伝の初版は、1866年から1879年にかけて3冊に分けて公表され、1816年までのベートーヴェンが扱われている。セイヤーの没後に、先ずはその僚友Hermann Deitersによって、Deiters自身が死去するとフーゴー・リーマンによって、セイヤーの覚書に基づく第4巻(1907年)と第5巻(1908年)が出版された。この2冊では、1817年からベートーヴェンの没年までが扱われている。(Wiki日本語版より)(今演奏会では、全巻セイヤーと称して扱っている。) 本年表は、このセイヤーの伝記(パブリックドメイン)、及び、ウィキペディア(CC BY-SA 4.0)日本語、ドイツ語、フランス語、英語、イタリア語を主に参照しています。JA.WIKIPEDIA.ORG “https://ja.wikipedia.org/wiki/ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン”ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン – WikipediaZENO.ORG “http://www.zeno.org/Musik/M/Thayer,+Alexander+Wheelock/Ludwig+van+Beethovens+Leben”🏠は引越し | ||
Alexander Wheelock Thayer–Ludwig van Beethovens Leben(セイヤーによるベートーヴェンの生涯)